成人式を終えて
成人式を終えた。厳密にいうと「平成31年 世田谷区新成人のつどい」という名称の催しであったそうだ。記憶の片隅に追いやるまでもないほどに軽薄なその催しは、筆者に一つの事実を確認させた。戻るべき過去など、どこにもない。
人にはそれぞれ懐かしむ思い出というものがあるのだと思う。具体的なエピソードを回想し、旧友と話すときの間合い・馴染みの場所での空気の流れ方といった潜在記憶*1を確かめ合うことで、ある種の不変性を複数の主体が同時に見出し、お互いの絆(=過去の実在)を確かめ合う。それが成人式・同窓会系列の催しにおけるやり取りの本質だと思う。筆者が好んで聴くUVERworldというロックバンドの楽曲では、「地元」や「仲間」といった表現が頻繁に歌詞の中で用いられている。これに限らず、過去の実在(=故郷、同志の存在)を確かめ合うことが、芸術を含む広い意味での表現・創作活動において強いモチーフの一つとなっていることは確認するまでもないだろう。
筆者の場合はどうだったかというと、そういったやり取りは起こらなかったし、特にそれを悲しいとも感じなかった。筆者が中学生の頃にいた地点と現在いる地点とではあまりに大きく乖離しているため、懐かしむ思い出など何もなかった。過去(=故郷、同志)が実在している必要さえなかった。あの三年間は現在の筆者にとってあってもなくてもどっちでもよかった、と言い切るのは些か早計か。二つの地点の優劣を論じるつもりはないし、そもそもそれぞれを比較することは不可能だと思う。ただ、現在の地点から中学生の頃にいた地点に帰ったとしても絶対に幸せにはなれない。現在の地点から見える世界はどんなに生きづらくても難しくて理不尽でも、豊かな色彩と広い可能性を持っている。お笑い番組の焼き直しのような世界観を生きて笑って満ち足りた思いをするようにはなりたくない。これは単純な価値観の問題というよりかは、生き方・居場所の選択にまつわる問題だと思う。
その生き方・居場所の選択についての問題だが、筆者は現在自分がどこにいるのかが分からない。大切な人とはいつまでも一緒にいられない。これからどうやって人に近づけばいいのかが分からない、どういった人に近づけばいいのかも分からない。人に近づくべきかどうかさえも分からない。自分がやりたいと思っていたこともやりたい止まりでその先へ一歩を踏み出せない。未だに「失敗は許されない」という呪縛が解けていない。筆者にとって去年はあまりに苦しく、その苦しさを耐えてやっと手に入れたと思っていた幾つかの大切なものも、年始の時点でほとんど失くしてしまった。心の折れる音が聞こえた。個人には抗いようのない世界の理不尽さに、夢を、目標を、憧憬を、献身を、慈愛を無残に砕かれた。終わり方がどんなに良かったとしても、前を向くには時間がかかる。現在地点は虚無のどん底だ、とさえ言いたくなる。
どうしてもほしくて、どうしても手に入らないものの積み重ねがわたしをわたしにしていく気がしている。
— チキ (@chiki_okumaneko) July 26, 2018
あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ
あなたは私を引き止めない いつだってそう
誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時には叶わないソングライター: Hikaru Utada誰かの願いが叶うころ 歌詞 © Sony Music Publishing (Japan) Inc., Batongirl Music, EMI APRIL MUSIC INC OBO BATONGIRL MUSIC
大切なことは、在るべき未来をつくるために現在地点を正しく把握していくこと。そこに過去の出てくる余地は最小限しか存在しない。今回の催しでそもそも筆者には拠り所となる過去が存在しないということが分かった。となると、次にするべきことは現在地点の把握となる。現在、筆者のそばには何が残されているのか。これから、どのような領域へと向かっていけばいいのか。考えることが苦しい。自分の内面を見つめすぎて、大きな穴が開いて、その穴に自分自身が飲み込まれてしまいそうになる。死がそう遠くない場所から声をかけてくるのが聞こえる。
筆者にとって魅力的な人たちは、それぞれ色々と悩みながらも自らの感性を大事にしながら生きている。何事にも本気を出せず他人に流されてばかりで、「自分を傷つけるような生き方」 *2しかできない筆者には難しいかもしれないけど、これからはそういった人たちの生き方を真似してみようと思う。今は少しでも多くの楽しい想いを、少しでも多くの人たちと分かち合いたい。傷つくことの辛さを身に染みて理解している分、人の痛みに寄り添えるようになりたい。その先に、本当の自分の未来が、心から大切にしたいと思えるような人や居場所が見えてくると思う。
その可能性に懸けて、今は少しだけゆっくりしよう。